人脈構築力

さな子と伊達宗城の関わり

 

 

さな子をトレースしていて伊達宗城むねなりに行き着く

いわゆる、幕末四賢候の一人である。

幕末での出番は少ないが幕府、有力藩主の一人。

 

 

龍馬と幕末四賢候

 

 

 

福井藩第十四代藩主 松平慶永(春嶽)

宇和島藩第八代藩主 伊達宗城

土佐藩第十五代藩主 山内豊信(容堂)

薩摩藩第十一代藩主 島津斉彬

 

 

 

伊達宗城も龍馬の人脈毛細血管の一つには違いない

 

 

さな子は十九歳の時に宇和島藩藩主の

姫君へ剣術を教えていたらしい。

宗城が書いた『稿本藍山公記こうほんらんざんこうき』にその旨が記されていた。

 

 

記憶に留めたか否かは分からないが

伊達家に龍馬の話などがされていたのではないだろうか?

千葉家を通して春嶽と深い親交を持ったこともある。

 

 

土佐藩においては下級武士ではあったが

剣術に打ち込むことで江戸遊学にと言うチャンスを得た。

そこでその独特な人柄もあり千葉道場の大切な門人になった。

 

 

坂本家の元をただせば商人である。(士農工商)

裕福ではあるがその劣等感が剣術に打ち込むことで

払拭され、そして日本を洗濯しその目は世界を……

 

 

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当時の日本の人口を考えると名声の伝播力は早い

 

 

日本の総人口が三千万人であり、土佐に到っては四十万人であった。

酔いどれ容堂も本当は二十代の龍馬について認識していたと思う。

残念なのが島津斉彬との出会いが果たせなかったことである。

 

 

先覚者斉彬との出会いがあったならもっと凄い龍馬がいたんだと思う。

有能な藩主は部下の使い方が上手くなければいけない。

言い方を変えれば春嶽などはまんまと龍馬を上手く使ったんじゃないかな?

 

 

勝海舟、大久保一翁、横井小楠などの考えを実行する龍馬

 

 

龍馬は下級武士であることを利用した。

そして本当に汗値千里駒となって

西日本を走り回り、遠く離れた人達の想いと要求を上手にまとめ上げた。

 

 

詳細な交友関係までは追い切れないとしても

当時の人口を考慮すると四賢候は龍馬のことを

聞き及び知っていたんだと思いませんか?

 

 

(島津斉彬は安政四年に亡くなっているので次の久光が交代になる)

そんな人脈作りにさな子もかなり貢献したんではないかと思います。

強い女性は恐くもあるし、その墓に坂本龍馬室と書かせるほどに悲しい。

 

 

千葉家と坂本家は龍馬とさな子の婚姻を了承していた節もあるようだ。

長崎にお龍、江戸にさな子で良かったんじゃないかな?

さな子さんには少なからず龍馬の物語を美しく彩って欲しい。