刃傷事件

桜田十八烈士と土佐藩坂本龍馬

 

 

何故、司馬氏は井口村刃傷事件を安政六年としたのであろうか?

その後に桜田門外の変を持ってくることに意味があったのか?

しばらく宿題にしておきたい。

 

 

龍馬が何を為そうとするべきか、如何にして生きて行くかを探索している時期である。

安政五年九月には江戸を出立し、土佐高知に向かっている。

井伊直弼が尊攘運動家や一橋派等に厳しい対応をはじめたのは同年八月からである。

 

 

徳川時代の終焉の始まり

 

 

何故に郷士が虐げられているのか?

長州藩、薩摩藩、土佐藩の郷士は物心ついた時から教えられている。

関ヶ原以降に家康に定められたカースト制度のようなものである。

 

しかし、その歴史に終止符を打つのは譜代大名水戸藩の急進派だった。

まだまだ龍馬は蚊帳の外にいる。

まだまだ出番は訪れていない。

 

 

将軍継嗣問題、修好通商条約の締結

 

 

蒸気船で七つの海をほしいままに移動し植民地政策を行う欧米諸国。

鎖国と言っても国境が全て海だから次から次へとやってくる。

また藩政改革に成功した西国雄藩の影響力も強くなっていた。

 

 

そんな中、第十三代将軍、徳川家定の後継をめぐって、南紀派と一橋派が争った。

一橋派は困難な時期に年長で有能な一橋慶喜(当時21歳)を推していた。

対する南紀派は家定の従弟で12歳の紀州藩主、徳川家福を推した。

 

 

結局、血縁を重要視する慣例や家定の意向に従い、家福を養子と決めた。

これは直弼を大老に推した南紀派を大いに満足させた。

だが、この決定は「困難な時期に次期将軍は年長のものが望ましい」と考えていた朝廷の意に反したものだった。

 

 

同時に幕府は米国から「日米修好通商条約」の締結を求められていた。

本来、朝廷の勅許を得なければならぬところ、それは適わず直弼は強引に調印を行った。

勅許を得ない条約調印と斉昭、春嶽の排訴は攘夷論の強い公家達に喧伝され、孝明天皇も憤慨した。

 

 

鎖国政策は本来、朝廷の勅許の元に行ったものではない。

だから開国は幕府の判断で行って何故悪いと考えた。

安政の大獄が始まり、大切な人材がたくさん殺害された。

 

 

これらに前後して徳川幕府は消耗戦を余儀なくされるわけだ。

その権威が崩れることは適わないと誰もが信じて疑わなかった。

しかし、暴虐は暴虐によって報復されるのが世の常だ。

 

 

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されど栄枯盛衰は人類必定、たった18人で政権交代に突き進む

 

 

国会議事堂の入口の手前で正に敷地に入る一歩手前で総理大臣が暗殺される。

そんなことがあたら皆さんはどのような思いを描くだろうか?

三百年に及ぶ安定した政権で突然こんなことが起きたわけだ。

 

 

しかし、それはそれ以上に惨憺たる犠牲者を生み出したことが原因だ。

それでも、あってはならない事件が起こってしまった。

老中井伊直弼を警護する彦根藩の行列は総員60人であった。

 

 

水戸藩脱藩浪士17名、薩摩藩士1名がその行列を堂々と襲撃した。

彦根藩邸から桜田門まで約400メートルである。

駕籠の中の井伊直弼に襲撃者の刀が次々に突き立てられた。

 

 

その後、薩摩藩士、有村次左衛門は駕籠から直弼をその髷を掴み引きずり出した。

息絶え絶えで無意識に這い出した直弼を薬丸示現流の猿叫と共に斬首。

有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。

 

 

この桜田義挙を境に幕威は急速に衰えて行く

 

 

半平太からこの話を聞いた龍馬は血が逆流した。

その生涯でこれほど血が騒ぐ思いはないだろう。

これから尊攘派の逆襲反撃が当たり前になるだろう。

 

 

正に松陰の”草莽崛起”が急加速して現れるだろう。

この事変を知らされて後、"大公儀"は単に”幕府”と呼び捨てにされた。

”御老中”は単に”老中”に”大樹”と敬称せず”将軍”と呼び捨てにされるようになった。

 

 

龍馬の土佐藩では下士軽格は幕府同様に藩そのものを軽侮するようになった。

そして京都では土佐勤王党の反撃が、安政の大獄を主導した者達の暗殺が行われる。

但し、龍馬はまだまだそのエンジンを始動させていない。

 

 

襲撃した者達はほとんでが斬首されている。

そして井伊直弼を守れなかったサムライも怪我を負ったものは切腹、無傷なものは斬首されている。

なんとも凄惨だ。悲しくなるほどに権力者の身勝手を感じる出来事です。