西洋文明

龍馬江戸遊学の経験

 

 

自費遊学と言うがこれは結構金が掛かる。

父親に対する感謝の気持ちは想像以上に大きい。

小千葉道場に入塾して2ヶ月後、黒船来航だ。

 

 

龍馬の江戸遊学は黒船にはじまり黒船に暮れた

 

 

 

切紙以上のものが入門する際は

その処遇を決めるために千葉重太郎が立ち会う。

龍馬は小栗流目録なのである。

 

 

龍馬、重太郎、勝負三本

 

 

 

審判千葉貞吉である。

「勝負三本」

軽捷な剣技で中段のまま、間合いを盗んで竹刀を絡めるようにあしらい龍馬は捲き籠手で軽く一本とられてしまった。

 

 

江戸の剣術は、何処か巧緻である。

(目録とは言え、田舎剣法だな)

瞬間、肩から息が抜けたところをすかさず、龍馬の長身が間合いをつめた。

 

 

龍馬の大ぶりな竹刀が、猛襲とでも言うような高速で頭上に落ちてきた。

人が変わったのか?

重太郎は右足を踏み出し、切っ先が円を描くようにして返しつつ、すれ違いざまに龍馬の胴を襲おうとしたが、龍馬の変化が僅かに早く、切っ先を沈めながら重太郎ののど輪をつらぬくほどに突き上げた。

 

 

「突きあり」

貞吉が龍馬に手をあげた。

(油断がならなぬ)

 

 

「やあ」と恫喝して左上段に重太郎はかまえた。

龍馬は中段であった。

重太郎は龍馬を動きに誘うために、しきりと奇声をあげたが、龍馬は応じない。

 

 

というより打ち込みようがない。

やはり重太郎のほうが技倆は一枚上手である。

重太郎は、間合いをつめた。

 

龍馬はそれにつられてさがって行く。

汗がしきりと噴き出している。

ふたたび重太郎の竹刀が籠手へ落ちようとしたが、龍馬はとっさにコブシをさげた。

 

重太郎はその乱れを見逃さず、機敏に面をとった。

「それまで」

龍馬の負けである。

 

その後、貞吉は龍馬を自室に招き入れ冷や酒、湯飲み、するめを与えて

「技は重いがそれだけにすじが良い、精進すれば、1年ほどで重太郎を超すことになるかも知れない」

と激励してくれた。

 

 

半平太はスラリと刀を抜き、ほたほたと打粉をを打ちはじめた

 

 

嘉永六年六月三日、米国東印度艦隊が来航した。

龍馬が江戸について2ヶ月目にあたる。

その兆候はすでに各所であったのだが

 

 

四隻で江戸湾口に投錨し、威嚇砲撃や測量などをはじめた。

旗艦サスクェハナ、ミシシッピー、サブライ、カプリスである。

大統領フィルモアの親書を呈するために来航した。

 

 

ペリーはかなり強行的であった。

そのため大公儀は戦々恐々としていた。

この弱腰が攘夷感情をあおった。

 

 

江戸に滞在していた龍馬は幕府の召集を受け品川沿岸の警備に当たらされた。

三ヶ月も沿岸警備に当たっていたらしい。

その後、土佐藩は鮫洲抱屋敷内に砲台建設を計画した。

 

 

土佐藩は大砲を扱える砲撃手の育成に着手した。

上士身分の若者が呼び寄せられ、その中に龍馬も加わっている。

佐久間象山塾で高島秋帆の洋式砲術を学ぶことになった。

 

 

自費遊学なのに随分勝手な大公儀だね。

土佐藩にしても品川沿岸警備の期間を

プラスで遊学期間を延ばしてあげてくれたのだろうか?

 

 

龍馬は好きな船の黒船を見て多彩な人材に会えた

 

 

龍馬は父親に『坂本八平訓戒書』を授けられていた。

 

一、 片時も忠孝を忘れず、修行第一の事
一、 諸道具に心移り、銀銭を費やさざる事
一、 色情にうつり、国家の大事をわすれ心得違いあるまじき事

この訓戒書の色情にうつりの部分ばかりが強調されている。

土佐の豪商とは言え、確かにお金は使い始めれば直ぐになくなっちゃうからね。

強いて言えば明治になって坂本一族は北海道に移住する。

 

 

侍相手の金貸しが明治になってデフォルトを起こしたわけで

長い目で見たら龍馬は自らの夢の実現と一族の行く末を

ちゃんと考えていたんだね。

 

 

龍馬、江戸遊学の成果

 

 

一回目の江戸遊学では大都会で黒船も来たし

大きな志を乗せる台みたいなものを築いたんだね。

剣術修行が黒船来航のお陰で、佐久間象山塾にもやっかいになれた。

 

 

砲術、漢学、蘭学、なども学ぶというより触れることができた。

12月から入塾したが、4月に象山は松陰米艦密航事件に

関連したと投獄されてしまった。

 

 

いろいろな経験をしたから土佐に戻ってからは刺激が激減してしまったんだなと思います。