一年五ヶ月の江戸遊学を終える。
そして龍馬は江戸から旅立ち
嘉永七年六月二十三日、高知に着いた。
※嘉永七年十一月七日に改元され安政元年となる。
江戸遊学後、帰郷した龍馬に新しい考えが芽生える
ジョン万次郎は嘉永四年二月二十二日に琉球に漂着。
薩摩藩の取り調べや長崎奉行所の取り調べなどを経て土佐に戻りました。
そして河田小龍のもとに同居し万次郎の話を記録、後に『漂巽紀略』を記した。
既に及ぶことが出来ない米国社会を知らされた
龍馬は日根野道場より中伝目録
『小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条』を取得
日根野道場の師範代を務めていた。
安政東海地震、安政南海地震を土佐で経験した。
司馬氏の竜馬は江戸で東海地震に冴とのその時に遭遇した。
そして南海地震で土佐壊滅を聞き高知に帰る。
つまり司馬氏の竜馬は二度目の江戸遊学ではない。
龍馬は高知で父八平の死に直面している。
司馬氏の竜馬は父の死に目に会えていない。
八平の死に対して龍馬がどれほど悲しんだかはわからない。
何やら食事もしばらく出来ないほどに泣き悲しんだようだ。
司馬氏の竜馬は帰藩時の期間はお田鶴さまの女正月を楽しんだ。
それ以外のエピソードもたくさんあったようだ。
その辺りの話はまた後に書かせて頂きます。
兎に角、早い時期に河田小龍に会っている。
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龍馬はこの時期、急進攘夷派に懐疑的になっていた
龍馬は継母伊与の実家でヨーロッパさんからも聞いていた。
外の西欧文明がどれ程に進んでいるか。
河田小龍からも西欧事情を十二分に聞いていた。
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ヨーロッパさんについて
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小龍はアメリカとの科学技術の差に戦慄を覚えた。
日本の行く末に不安を覚え、これを何とかしらしめなければならぬと考えた。
そして地図、風物などの挿絵を加えた『漂巽紀畧』五巻にまとめ上げた。
狭い地方社会である。
姉乙女の夫、岡上樹庵は小龍の親友でもあった。
欧米より蒸気船を買い、多くの仲間とたくさんの荷物を積みおおいに貿易をして欧米列強に追いつくべきだ。
龍馬が小龍から様々な知識を蓄積し、視野を海外へ向けたと云うことは紛れもない事実だ。
その河田の塾で近藤長次郎、長岡謙吉と知り合い、彼らとのネットワークも大きな財産となった。
龍馬にとって小龍との出会いは代えがたい宝物となった。
このへんの重要な龍馬の知識などが司馬氏の竜馬では時間的に遅れる。
またその重要性に対する記述が少ない。
但し、この辺りの時間軸のズレは『竜馬がゆく』執筆時には不明確であったのかもしれない。
そして二度目の江戸遊学に向かう
初めての江戸で黒船騒ぎに直面にした龍馬。
諸々の事情を咀嚼し始めた龍馬。
その活躍の土台が出来始めていた。
小龍の話を聞いていなければ勝海舟の話を素直に理解出来なかっただろう。
海外事情を各藩の要人と共有できるほどの知識を持っていた。
ゆえに松平春嶽と話が合い、気持ちが通じるまでに成長していた。
また土佐有志とのネットワークも出来上がっていた。
ただ、急進攘夷では解決しないことも理解するだけの素地を持てたわけだ。
強いて言えばお田鶴さまやお徳とのラブストーリーも大切なことだが。