季節の節目を祝う節句、文久元年三月四日にその事件は起きた。
もとをただせば関ヶ原以来の怨恨が根深く生き続けていた。
その日、土佐では上士達が皆登城し、藩主から御酒を頂戴する。
下士は登城する資格もなく、人とも思われない存在だった。
したたかに振る舞い酒に酔った山田広衛こと鬼山田は茶道方益永繁齋と連れ立ち闇夜を歩きはじめた。
二人は北奉公人町、小高坂橋を通り永福寺門前にかかる土橋にさしかかった。
空に星はあったがやっと道とわかる程にその夜は暗い。
抜刀することに何の正義があるのだろうか?ただ遺恨を残すだけ
その闇からすっと現れ、鬼山田に着き当たった武士がいた。
「何奴じゃ」怒鳴りつける鬼山田。
「これは申し訳ありませぬ」と黒い影。
そのまま行き過ぎようとしたところ
「待て」鬼山田は怒鳴った。
「名を申せ。わしは鬼山田じゃ。」
山田広衛は一刀流の剣客である。
腕に自信があるだけに始末が悪い。
それもしたたかに酔っている。
「上士に突き当たっておいて、名を名乗らぬとは無礼であろう」
黒い影は黙っている。
「お前は軽格じゃな」と侮蔑する口調だ。酔っている。
土佐藩では他藩にない差別法で軽格の無礼打ちはかまわない。
鬼山田は鯉口を切った。
黒い影は龍馬もよく知っている中平忠次郎である。
「軽格」とののしられ、忠次郎もカッとなった。
「山田殿、武士を面罵してそのままで済むとお思いか」
「いうたな、軽格づれが」
鬼山田は上士の中でも屈指の男で階級的なおごりもあった。
そして、前に進みながら刀をすーっと上段にあげた。
忠次郎は、やむなく下段、しかし下段は防御の構えで腕に自信のある剣術使いでないと攻撃に転じるのは難しい。
鬼山田は更に踏み込んだ。
腹を突き出し、どんどん押してゆく。
ここぞとばかり鬼山田は「やあっ。-----」と気合いを入れた。
忠次郎はツバを面上にあげ胴を空けてしまう。
突き進む鬼山田に一刀のもと忠次郎は袈裟を切られて絶叫をあげながらドサリと倒れた。
鬼山田はとどめを刺し、手を鼻に当て息絶えたことを確認する。
忠次郎は土佐の悪習だが衆道にうつつをぬかし宇賀喜久馬という美少年とその夜も逢瀬を楽しんでいた。
その場に居合わせた喜久馬はあわてて忠次郎の家に駆け込んだ。
忠次郎には池田寅之進という実兄がいた。
寅之進は二尺七寸、胴田貫、太刀拵えの剛刀を抜きはなって屋敷の門で鞘を捨て、現場に駆けつけた。
その時、鬼山田は小川の水で手を洗い、そのついでに水を掬い飲もうとしていた。
そこに池田寅之進は駆け下り「かたき。--------------」といきなり背を割った。
鬼山田は斬られながらも心得たり、草を掴んで土手をかけあがり、路上で剣を抜いた。
しょせん、剣は最初の一撃の勝負である。
どんなに優れた剣客でも背の傷から刻一刻と命が抜けて行く。
「軽格。--------------」とどなって、
上段から振り下ろしたとき寅之進は中段から擦りあげて籠手を撃ち、更に剣を舞上げて大きく踏み込むや、渾身の一刀で鬼山田の面を叩き斬った。
「どうだあっ」と更に踏み込んだとき、鬼山田は死体になっていた。
何も知らない繁斎が提灯を借りてきて飛び込んできた。
「山田様、借りてきましたぞ」
と灯を差し出した。
灯あかりでそこに立っているのは鬼山田ではないと気付いた。
繁斎は「ぎゃっ」と叫び逃げようとした。
池田寅之進は人を斬ったばかりで興奮している。
「繁斎、おのれもかたき」とばかりに片手なぐりに刀を振り下ろし、繁斎の細首をたたき切った。
胴と手足は提灯を持ったまま、トントンと足踏みして、やがて、パタリと倒れた。
斬れる、胴田貫は、寅之進は後に震えながら語った。
土佐は真っ二つ、上士は山田家に、寅之進の家には軽格が集いだした
翌朝には事件の仔細はお城下を越えて知れ渡る。
上士は山田家に続々と集まり、場外の軽格は池田の家に続々と集結した。
一つ誤り、戦になれば上士軽格の喧嘩ではなくなる。
事と次第では土佐藩はお取り潰しになる。
関ヶ原以来の鬱憤がここぞとばかりに吹出はじめている。
山内家は関ヶ原で徳川方だったわけで西軍は敗れ長曾我部はほろんだ。
その遺臣は、掛川から来た山内家から弾圧され、軽視されながらも土佐七郡の山野で生き続けてきた。
それらが坂本龍馬達土佐郷士である。
その思いがこの永福寺門前事件で暴発したのである。
吉田東洋は藩お取り潰しの重大事を回避するためにことを穏便に納める必要があった。
そこで山田を斬り殺した事件当事者である池田の命一つで解決するよう命じた。
いつの間にか郷士の総大将に祭り上げられた龍馬は池田寅之進と宇賀喜久馬の助命を求めて徹底抗戦の構えだ。
池田の家に遅れて駆けつけた半平太が、池田の行動を責めた。
他のものが「敵討ちは武士の誉れだ」と庇うが、半平太は「ここは土佐だ。他藩のようになゆかない」と語る。
「尊皇攘夷を成し遂げるには藩は必要であり、寅之進の刃傷沙汰で潰すわけにはゆかない」と語る。
内に外に押し問答が続く中、池田寅之進は突発的に脇差しを抜き、割腹。
皆に迷惑が掛かることを恐れた覚悟の切腹であった。
親友、池内蔵太はほとばしるように哭きながらも寅之進の介錯をせねばならなかった。
「池田よ。池内蔵太が介錯するぞよ」
「ありがとう」
「おンしは、弟の仇を討った武士の名誉を遂げた。土佐藩ならずば、生々世々、語り継がれる武士の誉れじゃ。」
「上士への恨みはわしが晴らしてくれる。嬉しく成仏せい」
「おお、もとよりじゃ」
「御免。-------」
首は、前に落ちた。
内蔵太は作法通りに首を龍馬に向けた。
「たしかに」と龍馬は言ってから、刀の下緒を解き、それを寅之進の血にひたした。
池田、おンしのことは忘れはせぬ、そのつもりでそれをした。
そこにいた皆が下緒を解いた。
たっぷりと、池田の血で染めた。
土佐藩の郷士に藩はない、一朝、天下に事あらば藩も幕府の為にも起たぬ
事件の発端は喜久馬が美少年であり、彼を連れ歩いたことが鬼山田の感に触ったためと言われた。
その後、喜久馬も切腹せざるを得なくなり、その兄の宇賀利正がその首を落とした。
兄はまだ若い弟を介錯したため、精神を病んだ。
事件後、藩は山田の父新八を謹慎処分とした。だが弟次郎八には家督を継ぐことを許した。
しかし、事件に巻き込まれた松井家、宇賀家は断絶処分、中平家、池田家は格禄を没収した。
この決定が半年後に結成された『土佐勤王党』の勢力拡大につながった。
※ 『竜馬がゆく』では竜馬二十五歳、安政六年に永福寺刃傷事件があったと記載されている。正確には文久元年三月四日である。
※ 【 汗血千里駒】では【中平忠次郎】、【司馬さん】では【中平忠一郎】である。