ポルトガル王ジョアン3世の要請で1549年、
フランシスコ・ザビエルはインド、そして日本にキリスト教を布教した。
ポルトガル人はカトリックで主に宣教することを目的としていた。
大公儀はオランダ人を仲介者として西洋文明に触れていた
オランダ人はプロテスタントなのだ。
西欧はオランダを仲介者として日本に僅かだが入ってきていた。
大公儀(幕府)は布教するか否かでポルトガルとオランダを峻別した。
長崎の出島、朝鮮半島からの流入は下関
日本列島は島国であり船を使えばどこからでもアプローチできる。
鎖国鎖国と申していても西欧はルネッサンス以降急激に行動範囲を広げた。
特に英国はインドを植民地とすることで莫大な量の天然硝石を入手した。
まだ、伊三郎さんがヨーロッパと呼ばれていてもその流入口は限られていた。
それでも地球の情報はどんどんと漏れてくる。
出島オランダ商館長、ドンケル・クルチウスは1852年、アメリカが武力で開国を迫ることを忠告している。
薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩は既に溢れるように訪れる西洋文明に直面していた。
地味に付き合ってくれていたオランダはその国力を急激に落としていた。
イギリス・フランス・アメリカ・ロシアと虎視眈々とアジアの国々を狙っていた。
ザビエルが送った報告書
聖フランシスコ・ザビエルがゼスイット会に報告書を送った。
『非キリスト教国のうちいまだ日本人に勝る国民を見ない。
行儀良く温良である。
が、十四歳より双刀を帯び、侮辱・軽蔑に対しては一切容赦せぬ。
彼らはどんな強大な盤船でも辟易せぬ。
スペイン人を皆殺しにせねばやめないだろう。』
幕末に戻るが
攘夷騒ぎは日本史にとってそれなりに無意味ではなかった。
列強が日本に対して、シナと違う扱いをしはじめたのは、一つはサムライとの陸戦を恐れたことだ。
艦砲射撃は別として、長期の陸戦に勝ち目はない。
いまだにローニン・サムライ・ハラキリは世界用語になっている。
また銃を持ってしても居合いの抜刀速度には勝てないと言われた。
少年期、青年期、墨夷、竜馬は世界に互する方法を創り上げていた
薩英戦争・四国艦隊の下関砲撃は戦いの在り方を考え直す契機となった。
ほのかなヨーロッパ
ステンドグラス・万華鏡・シャボン・金平糖・おしろい
対抗するためには貿易が必要
銃の進化のスピード・軍艦の巨大さと能力・国の在り方
欧米列強は利益を求めてアジアに繰り出している。
その利益をわれらも彼らと貿易し求めねばならない。
その儲けで軍艦や鉄砲をたくさん手に入れよう。