今日は英雄かも知れない。
五百年後は極悪非道の輩となるのが歴史である。
中華史、有力識者の言葉である。
司馬氏の創作?歴史小説?歴史認識とは
諸々の出来事を解釈する際には
個人や国家スタンスでの歴史観が不可欠だ。
歴史認識と呼ばれる心象はそれぞれの歴史観の元に理解される。
どのような歴史観を持って解釈するかにより大きく異なる。
これらの歴史認識の相違は時として軋轢を生むだろう。
時として創作されたエピソードも必要になる。
「あなたは昨日の自分を語れるか?」
真実だと信じた資料文献が
近年になって偽書だと認定された。
司馬氏は既に歴史の人になっている。
龍馬は膨大な人々に語り継がれてゆく。
つまり定型はないとは思いませんか?
龍馬を認識する人の数だけ龍馬は存在する。
司馬さんの龍馬はわかりやすさが信条だ
江戸遊学時代の二度の剣術大会は
志學館撃剣会の記録、半平太の記録は偽書だと断定されている。
安政四年十月三日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸での剣術試合。
その中で志學館撃剣会の小五郎と龍馬の試合については、多くの記録が残っている。
と司馬氏は小説中に書いている。
裏があっての創作であるが半平太の手紙だけを偽書とする見解が多い。
龍馬が品川屋敷における台場の警護を行っていたとき
長州藩士と土佐藩士剣術会やその折、相州偵察時の
小五郎と初めて会った時の剣戟描写はなくてはならない。
これはフィクションだとしても現実には同じような出来事があったと思った。
そうでないとここまで物語を引き立てる文章は書けないだろう。
それにしても司馬氏の描写力はカールツァイスを凌ぐものだ。
[st-card-ex url="https://www.zeiss.co.jp/corporate/home.html" target="_blank" rel="nofollow" label="描写力" name="カールツァイス" bgcolor="0000ff" color="ffffff" readmore="続きを見る"]
お田鶴さまと平井加尾をダブらせる
お田鶴さまが存在することで随分と龍馬の背景を説明できる。
龍馬は低い身分だが米飯経済衰退で家老福岡家と結びつきが深い。
また土佐藩の風習などで男女の交際がそれほど閉鎖的ではない。
そして土佐藩における武士階級、上士と下士のありようを語れる。
美しい女性を配することでつまらない説明を読者に容易に知らしめる。
坂崎紫瀾を読むよりは遙かに龍馬の理解が進む。
龍馬の幼少期青年期の文献がほとんどない
龍馬は十歳で母幸と死別している。
その年齢で母親を失う悲しみを想像出来ますか?
神が与えた試練とは言え二度と会うことは出来ない。
父八平の深い愛情をうかがい知ることができる。
後妻に伊与を迎えたわけは恐らく
乙女と龍馬のことを考えてのことではないかと思う。
八平は坂本家に婿に来た父親である。
49歳で後妻を迎えるだろうか?
一重に年の離れた乙女、龍馬を思ってのことのように思う。
なんと愛情の深い人々であろうか?
それができた坂本家であったし、時代だったんじゃないかな。
竜馬がいたとしても乙女の悲しみを思うと八平の優しさが身に凍みる。
そして乙女、龍馬は二人して伊予の川島家に度々遊びに行っていたんだ。
そこで叔父さんのヨーロッパさんから悲しみを忘れさせてくれる時間をもらったんだ。
二人して外の国のみやげ物に心躍らせたんだと思う。
癒やすことのできない心の痛みはそうやって癒やすしかないんだ。
ステンドグラスや地球儀、万華鏡、シャボン、金平糖、陶磁器……
そんなふうにして外の国と触れていたんだと思う。