愚人のように夜溺れの癖(寝小便癖)
いじめられっ子の泣き虫で弱虫だった。
これが龍馬の通説となっている。
伊与(継母)が龍馬の人格形成上、大きな影響を与えた
日根野道場に入門し、にわかに人が変わり頭角をあらわすだろうか?
熱心に稽古し、5年の修業後「小栗流和兵法事目録」を授けられた。
司馬さんもそのように書いている。
輸入品ゃ長崎や下関からの土産話など外の世界への強い興味を持った
父、八平の後妻、伊与の前夫の実家は下田屋(川島家)であった。
龍馬は乙女と浦戸湾を船で渡り、その実家をしばしば訪れていた。
※現代とは事情が少し違うので深く考えないで下さい。
実は坂本家と川島家は以前より付き合いがあった。
伊与が継母になる前の龍馬が小さいときから
乙女と鏡川から船で川島家に何度も遊びに行っていた。
川島家は藩政時代「下田屋」という屋号の御用商人として有名であり、木材などを扱いとっても大きな廻船問屋であった。
当時、川島家の当主、伊三郎さんはヨーロッパなどと言われ外国通であった。
乙女も龍馬も伊三郎さんから珍しい外国の話を聞いたり、世界地図などを見るのが楽しみだった。
そして多くの輸入品を見せてもらいながら外の世界へ強い憧れを持った。
また伊与からも外国事情を教えられたのかもしれません。
西洋船への強い憧れや西洋文化を躊躇せず受け入れる素地ができたのだと思います。
坂本伊与とはどんな人だったのか
伊与は土佐藩御用人北代平助の長女で薙刀が得意で大変聡明な人だったらしい。
龍馬は伊与の弟、修助さんの子、龍太郎を「龍太、龍太」と呼び可愛がっていた。
龍馬も厳しく躾られたときもあったようである。
伊与の三箇条があった。
一、相手にやられたらやりかえせ
二、自分が進んで手を出したらいかん
三、男は強くてやさしくないといかん
伊与は「美人の誉れが高く聡明で勝気な反面、慈悲心が強く、義理固く、母親想いで小柄だが薙刀の名手であった」と伝承されています。
坂本八平から龍馬へ土佐南学の教え
坂本八平は土佐南学の重鎮鹿持雅澄に師事していた。
師は大著『万葉集古義』を著した人だ。
八平は龍馬に南学の魂を継承することを願っていた。
『南学』は勤王の考えを中核とし、人として如何に生き行うかを説いている。
南学最大の特長として注目することは『字句の解釈、講学は二の次、三の次で、物事の本質、道理、大義を把握することを第一義とする』点である。
龍馬が少年時代に物事の本質、道理、大義を重要視すると養育されたとしたら素晴らしい教育を受けたことになる。
川島家の伝承では以下のように語られている。
『龍馬は思いやりがある気の優しい、よく気がつく子だった。』
『人並み以上の才知のある少年だった。』